越後与板打刃物の歴史を年代別にかんたんに紹介
1578年(天正6年):上杉謙信の家臣、直江大和守実綱が、春日山より刀剣師と鍛冶職人を与板に連れて来る。
戦国時代末期:直江兼続が技術を継承し、刀剣だけでなく鉄砲の開発製造にも力を入れる。与板の岩方地域や播磨国から砂鉄を運び、船戸地区に職人の工房を設立。
江戸時代中期:大工道具の生産が始まり、「土肥のみ」や「兵部のみ」といった名品が生まれる。
明治時代:竜眠斎兼行などの刀工が鉋(かんな)の製作に着手し、大工道具の産地として全国に名を馳せる。
1986年:越後与板打刃物が伝統工芸品に指定される。
2017年:地域おこし協力隊の制度を利用した後継者育成が始まる。
2020年:市民団体""ソラヒト日和""の支援と国・長岡市の補助金で後継者育成が進行中。
越後与板打刃物の歴史(詳細)
越後与板打刃物の歴史は、戦国時代、およそ450年前に始まります。この伝統は上杉謙信の重臣であった直江大和守実綱(景綱ともいう)によって始められたとされ、天正6年(1578年)に春日山から兼光・兼辰の流れを汲む刀剣師と鍛冶職人が与板に連れてこられました。実綱の後継者である直江兼続もこの技術を受け継ぎ、発展させました。彼は刀剣だけでなく、鉄砲の開発製造にも力を入れ、与板の岩方地域や播磨国から砂鉄を運び、船戸地区に職人の工房を設立しました。
江戸時代には、牧野氏と井伊氏が与板に居城し、城下町として舟運の要となり、与板は興隆しました。この時期には大工道具の生産も始まり、品質の良い「土肥のみ」や「兵部のみ」として天下に知れ渡りました。
明治時代には、竜眠斎兼行などの刀工が刀剣の製造の傍らで鉋(かんな)の製造にも着手し、与板は大工道具の生産地としての名声を高めました。1986年には、この優れた技術と伝統が評価され、伝統工芸品に指定されました。
現在も、伝統工芸士を中心に技術の磨きと伝統工法の守り伝えが続けられており、後継者育成の活動も行われています。与板は400年以上の歴史を持つ打刃物の町として、その伝統を今に伝えています。