高岡漆器の歴史を年代別にかんたんに紹介
17世紀初頭:加賀藩二代藩主・前田利長公が高岡の町を開き、城下町の基礎を築く。
江戸時代初期:「赤物」と呼ばれる赤茶色に塗られた指物が製造され、高岡漆器の基礎が形成される。
江戸中期:塗師屋八兵衛や辻丹甫が彩蒔絵、木彫、堆朱、堆黒などの技法を生み出す。
江戸時代後期:砺波屋桃造や板屋小右衛門などが木彫彩漆に優れた技術を展開。
幕末〜明治期:勇助塗、錆入れ、螺鈿などの多彩な技法が生み出される。
1615年(元和元年):一国一城令により高岡城が廃城となり、町は商業都市へ転換。
江戸時代末期:石井勇助や三村卯右衛門が新たな技法を確立し、立野太平治が螺鈿の一種・青貝塗を創出。
大正時代以降:高岡漆器同業組合の創設とともに業の近代化が進む。
昭和50年(1975年):国の「伝統的工芸品」に指定される。
高岡漆器の歴史(詳細)
高岡漆器の歴史は、17世紀の初めに加賀藩二代藩主・前田利長公によって始まります。前田利長公が高岡の町を開いた後、全国から職人や商人を集めて城下町の基礎を築きました。この時代から、武具や箪笥、膳などの日用品を製造する基盤が形成され、特に「赤物」と呼ばれる赤茶色に塗られた指物が知られるようになりました。この赤物は、新川郡大場村(現在の富山市大場)から移った大場庄左衛門によって製造され、その技術は高岡周辺だけでなく、越後や北海道にまで普及しました。
江戸中期には、塗師屋八兵衛や辻丹甫などの職人が彩蒔絵、木彫、堆朱、堆黒などの漆塗りの技法を生み出し、高岡漆器の発展に大きく貢献しました。彼らは本格的な工芸漆器の開祖とされ、高岡御車山などに見られる木彫彩漆に優れた名工も現れました。江戸後期には、砺波屋桃造や板屋小右衛門などが技術を継承し、幕末から明治期にかけては勇助塗、錆入れ、螺鈿などの多彩な技法が生み出されました。
高岡漆器の技術は、江戸時代の初めから町人文化の中に根づき、絢爛豪華な御車山にその技が集結していたことからも伺えます。元和元年(1615年)に一国一城令により高岡城が廃城となり、町は商業都市へと転換しました。この転換期を経て、江戸時代末期には中国明時代の漆器に憧れた石井勇助や三村卯右衛門が新たな技法を確立し、立野太平治が螺鈿の一種である青貝塗を創出しました。
大正時代以降、高岡漆器同業組合の創設とともに業の近代化が進み、戦後は分業化や共同事業によって再び勢いを取り戻し、昭和50年(1975年)には国の「伝統的工芸品」に指定されるに至りました。このようにして、高岡漆器は江戸時代から現代にかけて進化し続け、多彩な技術と豊かな歴史を持つ伝統工芸品としての地位を確立しています。