九谷焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
1655年(明暦元年):加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主、前田利治が、後藤才次郎に有田での製陶技術の習得を命じ、九谷村で窯を開く。これが九谷焼の始まりとされる。
1700年代初頭:九谷の窯が突然閉鎖される。この時期に作られた九谷焼は「古九谷」と呼ばれる。
江戸時代後期:加賀藩が陶工・文人画家の青木木米を京都から招き、金沢に春日山窯を開くなど、九谷焼の再興が始まる。この時期に作られた九谷焼は「再興九谷」と称される。
明治6年(1873年):小野窯の九谷庄三による彩色金襴手の絵付技法がウィーン万博で紹介され、「ジャパンクタニ」として国際的な名声を得る。
現代:人間国宝三代徳田八十吉らにより、モダンで優美な色彩の九谷焼が生み出され、その伝統は現在も発展を続けている。九谷焼は宮内庁の贈答品や英国チャールズ皇太子御成婚祝の献上品としても用いられ、国内外で広く愛用されている。
九谷焼の歴史(詳細)
九谷焼の歴史は江戸時代前期に始まり、1655年(明暦元年)に加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主、前田利治によって、領内の九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉九谷町)で始められました。前田利治は、金山での錬金役を務めていた後藤才次郎に肥前有田での製陶技術の習得を命じ、九谷での窯開きを指示しました。この時期に作られた九谷焼は、その後「古九谷」と呼ばれ、独特の力強い様式美で知られ、現在も高く評価されています。
しかし、開窯から約40~50年後の1700年代初頭には九谷の窯は突然閉鎖され、その理由は今も明らかになっていません。約100年の沈黙を経て、江戸後期には加賀藩によって陶工・文人画家の青木木米を京都から招き、金沢に春日山窯を開窯するなど、九谷焼の再興が始まりました。この再興期に作られた九谷焼は「再興九谷」と称され、小野窯や吉田屋窯などが次々と作られました。
明治時代に入ると、小野窯の九谷庄三が彩色金襴手の絵付技法で名声を博し、「庄三風」と呼ばれる九谷焼がウィーン万博に出品され、「ジャパンクタニ」として国際的な名声を得ました。この時代以降、九谷焼は豪快かつ色調渋く、柿右衛門や色鍋島、仁清と並ぶ日本の色絵陶磁の代表として、また宮内庁の贈答品や英国チャールズ皇太子御成婚祝の献上品として、国内外で広く愛用されるようになりました。
現代においても、九谷焼は人間国宝三代徳田八十吉や吉田美統、仲田錦玉らによってモダンで優美な色彩の作品が生み出され、その伝統が発展を続けています。九谷焼は日用品から美術品まで幅広い種類があり、その独特な美しさにより、初めての方も慣れ親しんだ方も心癒されるひとときをお過ごしになれるでしょう。