宮城伝統こけし

宮城伝統こけしの歴史~歴史ある可憐な人形~

宮城伝統こけしの歴史を年代別にかんたんに紹介

奈良時代 (718年~770年)
称徳天皇の時代: 陀羅尼経を100万巻木版印刷し、小さな木製の塔の中に詰めて諸国の寺院に奉納。これが「百万塔陀羅尼」として知られ、こけしの起源とされる。

平安時代 (844年~897年)
清和天皇の第一王子、惟喬親王が近江国でろくろ挽きの技術を指導。その後、技術を持った木地師たちが日本全国に広がり、木地屋の集落を形成。

江戸時代 享保年間 (1704年頃~)
東北地方の湯治場で、子供向けの土産としてこけしの製造が始まる。

文化・文政時代 (1804年~1830年)
宮城県の鳴子で、木地業をしていた人々が自らの子供に玩具としてこけしを作り始める。

弘化年間 (1845年~1848年)
鳴子の旅館業者、大沼又五郎が、神奈川県の小田原から来た職人から挽物技術を学び、こけし作りを新しい産業として確立。

宮城伝統こけしの歴史(詳細)

宮城伝統こけしの歴史は、1300年以上前の奈良時代にさかのぼります。称徳天皇の時代には、陀羅尼経を100万巻ほど木版印刷し、それを小さな木製の塔の中に詰めて全国の寺院に奉納した「百万塔陀羅尼」というものが作られました。この塔の部分がこけしの起源とされています。また、平安時代に文徳天皇の皇子、小野宮が近江国に隠棲する際、周囲の住民に木工の技術を教えたことが、木地師として知られる伝統の木工職人の始まりとなりました。これらの木地師たちは、良材を求めて日本各地を往来し、技術を広めました。江戸時代の享保年間には、東北地方の湯治場で子供向けの土産としてこけしが作られるようになりました。特に宮城県の鳴子は、こけしの発祥の地の一つとされています。文化・文政時代(1804年~1830年)に、鳴子の山奥で木地業を行っていた人々が、自らの子供に玩具としてこけしを作ったことがその始まりとされる一方、弘化年間(1845年~1848年)に鳴子の旅館業者であった大沼又五郎が神奈川県の小田原から来た職人から挽物技術を学び、鳴子での新しい産業として確立したという説もあります。

-宮城伝統こけし