天童将棋駒の歴史を年代別にかんたんに紹介
1767年(明和4年): 上野国小幡から出羽国高畠に移封された織田氏が、天童を中心とする村山地方に13,000余石の所領を有する。
1831年(天保2年): 織田藩が高畠から天童に移館し、将棋駒製作を家臣の内職として奨励する。
1846年(弘化3年): 将棋駒製作の初期を示す資料が存在する。
1848年(嘉永元年): 所領交換により、織田藩の所領が村山地方に集中し、天童織田藩が実質的に成立する。
1870年(明治3年): 歴史的資料に残る将棋駒の製造年号が確認される。
明治時代末期: 機械化が進み、大量生産の時代に移行する。
昭和初期: 安価で良質な天童将棋駒が供給され始める。
昭和40年代: 生産が彫り駒に移り、彫埋めや盛り上げ技術が研究され、製品化される。
現代: 一般財団法人伝統的産業振興協会に認定された伝統工芸士により作られる盛り上げ駒が、プロ棋士のタイトル戦で使用される。
天童将棋駒の歴史(詳細)
天童将棋駒の歴史は江戸時代末期に根を下ろしています。1831年に織田藩が天童に城を移したことが、将棋駒製作の奨励につながりました。当時の織田藩は財政難に直面しており、藩士たちの生活を支えるために将棋駒の製造が内職として推奨されました。これは、将棋が戦術を磨くためのものと見なされ、武士の名誉にかかわる仕事とは考えられていなかったためです。将棋駒作りは下級藩士の手仕事として始まり、彼らは家計を助けるためにこれに従事しました。
将棋駒産業の発展は、用人職であり勤王の志士としても知られた吉田大八の影響が大きいです。彼は将棋駒製造を藩士に奨励し、この職人技を普及させるために尽力しました。歴史的資料によれば、天童における将棋駒づくりの歴史は少なくとも100年以上にわたることが示されており、五角形の将棋駒やその文字は12世紀頃の遺跡から出土した物に起源を持ち、天皇や書家の書いた文字が現在に至るまで引き継がれています。
天童織田藩時代には木地造りと書きが分業で行われていましたが、明治時代末期からは機械化が進み、大量生産が可能となりました。昭和初期には安価で良質な天童将棋駒が供給されるようになり、昭和40年代には彫り駒が生産の主体となり、彫埋めや盛り上げといった技術が発展しました。現在、伝統的産業振興協会に認定された伝統工芸士が製造する盛り上げ駒は、プロ棋士のタイトル戦にも使用されているという点で、天童将棋駒の高い技術と歴史が称賛され続けています。