大堀相馬焼の歴史を年代別にかんたんに紹介
元禄3年(1690年):大堀村(現在の浪江町大堀)で半谷仁左衛門(休閑)の下僕「左馬」が陶器作りを始める。
元禄10年(1697年):相馬藩が「瀬戸物師他領土へ出ることべからず」という布令を出し、技術流出の防止に乗り出す。
享保18年(1733年):地場産品愛用運動を布令し、相馬藩が瀬戸物の買い入れと一手販売を開始。
江戸末期:大堀相馬焼が東北随一の産地となり、隣村にも普及。窯元数は120戸に達する。
明治時代:廃藩置県により藩の援助が途絶え、窯元数が激減。新しい技法や作風の開発が行われる。
昭和初期:戦争の影響で多くの窯元が閉鎖される。
1978年:大堀相馬焼が国の伝統的工芸品に指定される。
2011年:東日本大震災と福島第一原子力発電所事故により、大堀地区が避難区域となり、窯元が中断される。
2012年:大堀相馬焼協同組合が二本松市内に仮設の工房兼事務所を開設し、生産活動を再開。
現在:約半数の窯元が福島県内で生産を再開し、伝統を継承。
大堀相馬焼の歴史(詳細)
大堀相馬焼の歴史は江戸時代の元禄年間に始まります。この陶芸は、相馬領大堀村(現在の浪江町大堀)で始まり、初期の重要人物は半谷仁左衛門(休閑)とその下僕「左馬」です。左馬は相馬藩窯で陶器作りの技術を習得し、地元で陶土を発見した後、茶碗の製作に成功しました。休閑もこの技法を学び、村の主要な事業として陶器製作を推進しました。初期の大堀相馬焼は、休閑を陶祖として、村内の親戚や在郷給人に技法が伝授されました。
元禄10年(1697年)、相馬藩は大堀相馬焼を藩の特産物として位置づけ、技術流出の防止や地元産品の愛用を促進する政策を施行しました。享保18年(1733年)には地場産品愛用運動が布令されました。その結果、江戸末期までには大堀村と隣村に広がり、120戸の窯元を有する東北随一の産地に成長しました。
明治時代に入ると、藩の援助が途絶え、多くの窯元が廃業しました。しかし、残った窯元は新しい技法や独特の作風を開発し、生産を続けました。二重焼きや駒絵などの特徴的な技法がこの時期に開発されました。大正時代には技術革新が進み、作風の変化も見られました。
しかし、第二次世界大戦の影響で、多くの窯元が閉鎖を余儀なくされました。戦後の復興期には輸出ブームが起こり、1978年には大堀相馬焼が国の伝統的工芸品に指定されました。
しかし、2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故により、大堀地区は避難区域となり、窯元や職人たちは避難し、産地としてのコミュニティは一時寸断されました。その後、大堀相馬焼協同組合は二本松市内に仮設の工房兼事務所を開設し、活動を再開しました。現在、約半数の窯元が福島県内で生産を再開しており、この伝統工芸は困難に耐えて生き続けています。