尾張仏具

尾張仏具の歴史~独自の技法が施された歴史ある仏具~

尾張仏具の歴史を年代別にかんたんに紹介

江戸時代初期: 名古屋城下で木製漆塗りの仏具生産が始まります。下級武士の内職として発展し、錺屋職の技術を基に仏壇や仏具が生産されます。
江戸時代後期: 下級武士の内職として仏具製造がさらに発展。長野県木曽郡で産出される良質な桧材を使用し、木曽川から伊勢湾を経由して名古屋に運び込む。
明治期: 問屋が中核となり、専門性の高い技術を持った職人の分業制による大量生産体制が確立されます。尾張仏具が全国に広く流通するようになります。
大正期: 第一次世界大戦の戦後反動恐慌によるデフレ不況を経験しますが、関東大震災後の復興により業界は活性化されます。
昭和初期: 販路が拡大し、台湾、満州、樺太、朝鮮へ輸出されます。
戦後: 信仰心の低下や家庭での仏壇・仏具への支出減少などにより職人数が減少し、現在の事業者数は約150になります。

尾張仏具の歴史(詳細)

尾張仏具は、江戸時代初期から名古屋城下で生産が始まり、木製漆塗り製品が中心でした。当初は下級武士の内職として発展し、特に錺屋職(かざりやしょく)の技術を基に仏壇や仏具が作られていました。生産には長野県木曽郡で産出される良質な桧材が使用され、これを木曽川から伊勢湾を経由し、堀川へと運び名古屋に供給していました。

江戸後期には、下級武士の内職としてさらに発展し、明治期以降には問屋が中核となり、専門性の高い技術を持った職人の分業制を通じて、多種多様で質の高い仏具を大量生産する体制が確立されました。尾張地域が日本の中心に位置し、問屋の力が強かったため、尾張仏具は全国に広く流通するようになりました。

大正期には第一次世界大戦の戦後反動恐慌によるデフレ不況に見舞われましたが、関東大震災後の復興により業界は活性化しました。昭和初期には販路が拡大し、台湾、満州、樺太、朝鮮への輸出も行われました。

尾張仏具に関連する事業者は、大須観音から西別院を経て東別院に行く参道となっていた橘町を中心に集中していました。しかし、戦後の高度経済成長や人口増加に伴う寄付の増加にもかかわらず、信仰心の低下や家庭での仏壇・仏具への支出減少、大型化・機械化による郊外への移転などにより職人の数は減少し、現在では約150の事業者が商いを続けています。

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