若狭めのう細工の歴史を年代別にかんたんに紹介
奈良時代:遠敷(おにゅう=現在の小浜市・若狭町・おおい町周辺)に玉を崇める鰐族(わにぞく)が渡来し、若狭一の宮神社(若狭彦神社)の前で玉作りを始める。
1716~1735年(享保年間):高山吉兵衛(一部記録では喜兵衛)が浪花の眼鏡屋で奉公中、めのう細工の「焼入れ技術」を習得し、若狭でめのう細工の事業を始める。
明治初年:中川平助(他の記録では中川清助)が技術改良と工芸彫刻法の開発、販路の開拓を行い、若狭めのう細工の名声を高める。
明治38年:北海道での原石共同採掘を機に、業者が技術改良とデザイン研究を積み重ねる。
昭和51年6月2日:若狭めのう細工が伝統的工芸品に指定される。
若狭めのう細工の歴史(詳細)
若狭めのう細工の歴史は、奈良時代に遡り、遠敷(現在の小浜市・若狭町・おおい町周辺)に渡来した玉を崇める鰐族(わにぞく)と呼ばれる海の民が、若狭一の宮神社(若狭彦神社)の前で玉を作り始めたことにその起源を持つとされています。この時代から若狭めのう細工の伝統が始まったという説もありますが、現在に継承されている技法が確立されたのは、江戸時代中期の享保年間(1716~1735年)です。この時期に、当地出身の高山吉兵衛(一部の記録では喜兵衛とも)が浪花(大阪)の眼鏡屋で奉公中に、めのうの原石に熱を加えることで赤く発色させる「焼入れ技術」を習得し、故郷に帰ってからめのう細工の事業を始めたことが、本格的な若狭めのう細工産業の始まりと言い伝えられています。
明治初年には、中川平助(他の記録では中川清助とも)が技術の改良に苦心し、玉造りにとどまらず、種々の工芸彫刻法を案出しました。彼は販路の開拓を図り、国内外の美術博覧会に出品して若狭めのう工芸の妙を広く紹介し、褒賞を受けるなどして、その名声を高めました。明治38年には北海道に原石を求める共同採掘を機に、業者が一致団結して技術の改良やデザインの研究を積み重ねてきました。
戦後は、北海道の原石の枯渇や物品税の導入などにより産地の先行きに不安が生じ、従業者の離職が相次ぎましたが、昭和51年6月2日に伝統的工芸品の指定を受け、その後は数名の従事者が仏像や唐美人、各種動物の置物、香炉、花瓶、灰皿やブローチ、イヤリング、ペンダント、指輪、ネックレスなどの作品を入念に製作しています。中川清助(または平助)の技術は現代にも受け継がれ、アクセサリーや置物、装飾品が国内外で高い評価を得ており、若狭めのう細工の名声は遠く海外にまで好評を博しています。