豊岡杞柳細工の歴史を年代別にかんたんに紹介
西暦27年 豊岡杞柳細工の起源とされる時期。
奈良時代 「但馬国産柳箱」が正倉院に実在し、上層階級の使用品として確認。
室町時代 柳行李が商品として売買される記述が応仁記に残される。
江戸時代 豊岡藩の奨励により、「豊岡の柳行李」が全国的に名声を得る。
明治33年(1900年) 行李鞄がパリ万博に出品され、世界を魅了する。
大正6年(1917年) 柳行李商豊岡同業組合が「杞柳製品見本帳」を作成、「杞柳」という言葉が使われ始める。
平成4年(1992年) 豊岡杞柳細工が国の伝統的工芸品に指定される。
豊岡杞柳細工の歴史(詳細)
豊岡杞柳細工の歴史は西暦27年までさかのぼると言われ、円山川の氾濫が多くあった豊岡では、気候風土がコリヤナギの生育に適していたため、米の収穫が不安定な状況を補う形でかご作りが行われるようになりました。江戸時代には京極藩の保護・奨励を受けて豊岡の柳行李が全国的に名を馳せ、時代の変遷に合わせて柳細工やかばん産業へと発展しました。柳行李やバスケットは、豊岡で生まれ、但馬の風土に育ち、かばんの町の基礎を築いてきました。平成4年(1992年)には国の伝統的工芸品に指定され、「豊岡杞柳細工」と呼ばれるようになり、柳行李、小行李、柳・籐籠の3部門があります。
その起源は奈良時代にさかのぼり、「但馬国産柳箱」が正倉院に実在しており、この時代には文箱、衣装入れ、小物入れとして使用されていました。室町時代には柳行李が商品として売買され、江戸時代には豊岡藩の奨励により一大産業へと成長しました。明治時代には牛革の取手と装飾が施された行李鞄がパリ万博に出品され世界を魅了し、大正時代には杞柳細工の産業が海外輸出を行うまでに発展しました。昭和初期には杞柳産業に携わる職人が1万人程度おり、戦時中は軍用行李や飯行李が作られましたが、ファイバーや合成皮革の普及により需要は衰退しました。現在その伝統技術を継ぐ職人は「たくみ工芸」を屋号に持つ伝統工芸士、寺内卓己ただ一人となっています。