大洲和紙の歴史を年代別にかんたんに紹介
古代 - 万葉の歌人柿本人麻呂が紙漉きの技を起こし、伊予の大洲に伝わる。
寛永年間(1624~1643) - 大洲藩主加藤泰興が土佐の浪人、岡崎左衛門を召し抱え、御用紙を漉かせる。また、越前から宗昌禅定門が来村し、大洲藩紙漉きの師として技術を指導。
元禄年間(1688~1704) - 宗昌禅定門が大洲藩の紙漉きの師として越前和紙の技術を指導。大洲和紙の始まり。
宝暦10年(1760) - 大洲藩が紙役所を内子に、楮役所を五十崎に設置し、和紙の生産を統制。
明治中期 - コウゾ原料の地半紙からミツマタ中心の改良半紙が盛んになる。小田川に沿って工場が続出し、明治末期には業者数が430名に達する。
明治42年(1909)~大正5年(1916) - 和紙の生産が盛んになる。
昭和20年(1945) - 機械文明の発達により、業者数が74名に減少。
現在 - 業者数が僅かながらも、大洲和紙は「日本一」と評される品質で書道家から愛され続けている。
大洲和紙の歴史(詳細)
大洲和紙の歴史は古く、『延喜式』や正倉院文書に記載されるほどで、万葉の歌人柿本人麻呂が岩見の国で紙漉きの技を起こし、その技術が速やかに伊予の大洲に伝わったとされます。徳川時代には、大洲藩主加藤泰興が寛永年間に土佐の浪人岡崎治郎左衛門を召し抱え、御用紙を漉かせたほか、越前から元禄年間に宗昌禅定門(俗名善之進)が来村し、大洲藩紙漉きの技術を指導しました。このようにして、大洲和紙は藩内産業として繁栄を極め、宝暦10年には紙役所と楮役所を設置し、大洲和紙を難波の地に移出し、藩経済に大いに寄与しました。
大洲和紙は全国の書道家に愛用されるまでの地位を確立しましたが、明治期に藩の専売制がなくなり、資金の流通や原料供給のストップなどの影響を受けて一時低迷しました。しかし、明治中期に三椏(みつまた)を原料とした改良半紙の開発により、大洲和紙は再び繁栄の時を迎えました。特にかな用の書道用紙として、また障子紙としても、高級な製品が多く、全国各地の寺院、茶室、高級住宅などで広く使用されています。明治末期には業者数が430名に達しましたが、機械文明の発達により業者数は減少し、現在では僅かな業者が残るのみです。しかし、「大洲和紙のかな用書道用紙は日本一」と評されるなど、その品質は高く評価されています。