長崎べっ甲

長崎べっ甲の歴史~希少な飴色の艶~

長崎べっ甲の歴史を年代別にかんたんに紹介

随・唐の時代:中国でべっ甲技術が生み出される。
17世紀後半:ポルトガル船やオランダ船を通じてべっ甲技術が長崎に伝来し、製作が始まる。
江戸時代(鎖国期):長崎がオランダと中国との貿易港として唯一開かれ、べっ甲原料を容易に入手できるようになる。べっ甲細工が発展し、京都や東京へと流行する。
享保年間(1716~1735):長崎にべっ甲職人が存在し、酒屋町、袋町、西古川町に技術が栄える。主に女性の髪飾りに加工される。
安政時代(1854~1860)の開国以後:長崎のべっ甲細工が最も盛んになり、長崎ブランドとして全国で認知される。外国人居留地やロシア人など外国人からも人気を集める。技術とデザインが一層成熟していく。

長崎べっ甲の歴史(詳細)

長崎べっ甲の歴史は、随・唐の時代に中国で生み出された技術に端を発し、ポルトガル船やオランダ船を通じて17世紀後半から長崎で作られ始めた、300年以上の伝統を持つ工芸品です。もともと中国の技術であったべっ甲製作は、徳川幕府の鎖国政策により、長崎港がオランダと中国との唯一の貿易港となったことから、原料を容易に入手できるようになりました。これにより、長崎におけるべっ甲細工が発展し、その技法は京都や東京へと伝播しました。長崎での技法は丁寧に厚みや色合いを調整する手作業による緻密で精巧なものが特徴であり、かんざしや宝船等の大型の置物も製造されています。享保年間(1716~1735)には長崎にべっ甲職人がおり、酒屋町、袋町、西古川町など中島川沿いにその技術が栄えました。特に女性用の髪飾りである笄(こうがい)に加工され、丸山や寄合両町の遊女たちの漆黒の髪を彩りました。しかし、長崎のべっ甲細工が最も盛んになり、長崎ブランドとして全国で認知されるようになったのは安政の開国以後で、外国人居留地での外国人たちからも人気を集めました。これらの様々なニーズに応えていくうちに、技術とデザインは一層成熟していきました。興味深いことに、これほどまでに長崎を代表する土産物でありながら、『長崎夜話草』には記載されておらず、その理由としてべっ甲細工が高価な贅沢品であり一般人には手が出なかったためと考えられています。

-長崎べっ甲