天草陶磁器

天草陶磁器の歴史~シンプルで魅力的なデザイン~

天草陶磁器の歴史を年代別にかんたんに紹介

元禄時代(1688年〜1704年) - 天草陶石が砥石として売り出され始める。

正徳2年(1712年) - 天草陶石が磁器原料として佐賀・長崎方面に供給されるようになる。

延宝4年(1676年) - 内田皿山で磁器が焼かれ始めることが古文書から確認される。

宝暦12年(1762年) - 高浜村の庄屋上田家が肥前の陶工を招いて磁器製造を開始。

明和2年(1765年) - 本渡村水の平で岡部家が陶器を焼き始める。

江戸時代後期 - 金澤家が陶器窯を開窯。

1762年 - 6代目上田伝五右衛門が高浜村で開窯し、天草の陶磁器製造が始まる。

約300年前 - 天草陶石が発見され、初めは砥石として出荷される。

19世紀初頭 - 加藤民吉が瀬戸焼の再興のために天草を訪れ、天草の窯元である上田宣珍から技術を学ぶ。

天草陶磁器の歴史(詳細)

天草陶磁器の歴史は、幕府の直轄地であった天草の独特の地勢と天草陶石の特性に深く根ざしています。天草は藩の御用窯がない天領であり、各村の庄屋が陶石の販売や焼物の製造を通じて地域の振興を図っていました。天草陶石は、元禄時代から砥石として売り出され、正徳2年頃からは磁器の原料として佐賀・長崎方面に供給され、やがて全国に広がりました。延宝4年には内田皿山で磁器が焼かれ始め、宝暦12年には高浜村の庄屋上田家が肥前の陶工を招いて磁器製造を開始した記録があります。さらに、明和2年には本渡村水の平で岡部家が陶器を焼き始め、江戸後期には金澤家が陶器窯を開窯しました。

天草の窯元の中で、特に記録に残るのは1762年に6代目の上田伝五右衛門が高浜村で開窯したことです。伝五右衛門は高品質な天草陶石を活用して村を豊かにしようと考え、天草の陶磁器製造の礎を築きました。その後も水の平焼、丸尾焼などの窯が次々と開窯され、各窯元が独自の個性を持って発展してきました。天草陶磁器には全体に共通する特徴がなく、日常使いのシンプルな花器や食器など、陶器と磁器の両方が作られています。

天草陶石は、単体で磁器を作ることができる世界的にも珍しい陶磁器原料であり、約300年前に発見された後、磁器の主要原料として全国に広まりました。この陶石は、高温焼成すると白さに濁りがない美しい磁器が完成し、その特性から電気的絶縁性にも優れ、高圧碍子の原料としても使用されています。

天草陶磁器の歴史には、多くの著名な人物が関わってきました。江戸時代の文化人である平賀源内は天草陶石の素晴らしさを評価し、殖産興業のための建白書「陶器工夫書」を提出しました。また、19世紀初頭には、瀬戸焼の再興を目指す加藤民吉が天草を訪れ、地元の窯元である上田宣珍から技術を学びました。これらの人物は、天草陶磁器産業の発展に大きく貢献し、その技術や伝統は200年以上にわたり絶えることなく継承され、現代でも豊かで個性的な作品が多く生み出されています。

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