肥後象がんの歴史を年代別にかんたんに紹介
江戸時代初頭 - 肥後象眼の始祖である林又七が加藤清正に仕え、のちに細川忠利に仕職し、京都で布目象眼の技術を習得し、銃身に象眼を施すようになります。
寛永9年(1632年) - 細川忠利が肥後国主として入国。林又七が細川家に仕え、肥後象眼の技術を発展させる。
江戸時代 - 林家のほか、平田家、西垣家、志水家、神吉家などにより、肥後鐔の名品が数多く残されます。特に幕末には「神吉楽寿」が出現し、肥後象眼は不動の地位を築きます。
明治9年(1876年) - 廃刀令発布により刀剣金具の需要が無くなり、肥後象眼も衰退。装身具や装飾品に技術転用を図ることで再び活路を見出し、その伝統の技術は現在に受け継がれています。
肥後象がんの歴史(詳細)
肥後象眼の歴史は江戸時代初頭にその始まりを見ます。この技術の始祖は林又七であり、彼は加藤清正に仕えていた鉄砲鍛冶でした。1632年(寛永9年)、加藤家改易の後、細川忠利が肥後藩主となり、林又七は細川忠利に仕えるようになりました。京都で布目象眼の技術を習得した彼は、銃身に九曜紋や桜紋などの象眼を施すようになり、その技術は子孫にも受け継がれ、肥後象眼として発展しました。肥後象眼の発展には細川忠興の影響も大きく、彼の庇護のもと、鍛冶である平田彦三などの名匠が刀剣金具制作などの金工技術を競い合いました。特に幕末期には林又七の再来と呼ばれる名人「神吉楽寿」が出現し、肥後象眼はその地位を確固たるものとしました。
肥後象眼は、寛永9年に細川忠利侯に仕えた林又七が鉄砲や刀の鐔に施したことから始まり、林家のほか平田家、西垣家、志水家、神吉家などにより、数多くの名品が残されています。明治9年(1876年)の廃刀令以降、装身具や装飾品への技術転用が図られ、日常生活の変化に対応した製品が作られるようになりました。このようにして、肥後象眼は武家社会の隆盛と共に洗練された技術として発展し、明治維新と共に変化に適応しながらその伝統の技術は現在に受け継がれています。