山鹿灯籠

山鹿灯籠の歴史~紙と糊だけで生み出される立体感~

山鹿灯籠の歴史を年代別にかんたんに紹介

第12代景行天皇の時代 - 景行天皇が菊池川を遡り山鹿に着船する際、濃い霧に覆われたため、山鹿の人々が松明を掲げて道案内し、無事にお迎えした。これが山鹿灯籠の原点とされる。

室町時代 - 山鹿灯籠が松明から変化し始め、大宮神社への献上品として発展。

1486年(文明18年) - 紙細工で有名な山口兵衛によって紙灯籠数百が作られ、大法会で献じられる。

1674年(延宝2年) - 山鹿湯町で灯籠を見物する記録があり、17世紀中頃には山鹿灯籠が制作され、人々によって鑑賞されていたことが確認される。

1754年(宝暦4年) - 藩主細川重賢が灯籠をご覧になり、細工人たちが制作し、熊本御花畑屋敷に納品。

昭和30年頃 - 「千人灯籠踊り」が観光資源として新たに考案される。

1897年(明治30年) - 従来の宮造りや座敷造りに加えて、軍艦や情景をモチーフにした灯籠作品が登場。

2012年(平成24年) - 山鹿灯籠振興会が結成され、後継者の育成や販売拡張などに取り組み始める。

2013年(平成25年) - 山鹿灯籠が経済産業省の伝統的工芸品に指定される。

山鹿灯籠の歴史(詳細)

山鹿灯籠の歴史は、第12代景行天皇の時代にさかのぼります。この伝説によれば、景行天皇が菊池川を遡り山鹿に着船した際、濃い霧に覆われていたため、山鹿の人々が松明を掲げて天皇を無事に迎え入れたことが始まりとされています。この出来事が後の山鹿灯籠の原点となり、景行天皇を祀る大宮神社への献上品として、室町時代には山鹿灯籠へと変化しました。これが現在の山鹿灯籠まつりへと発展し、伝統工芸品としての山鹿灯籠も成熟していきました。特に「千人灯籠踊り」は昭和30年頃に観光資源として新たに考案されたもので、山鹿灯籠の伝統とは別の流れを形成しています。

史料によると、山鹿灯籠は1486年(文明18年)に紙細工で有名な山口兵衛によって数百個が作られ、大法会で献じられたのが最初の記録であり、これが紙灯籠の由来とされています。また、1674年(延宝2年)には山鹿湯町で灯籠を見物する記録があり、少なくとも17世紀中頃には山鹿灯籠が制作され、人々によって鑑賞されていたことが分かります。江戸時代には、藩主細川重賢が灯籠を高く評価し、山鹿での狩りの際に度々灯籠を見るようになりました。この時期、山鹿灯籠は「幕内の五」と評価され、その評判を示しています。

明治時代に入ると、灯籠の種類も増え、軍艦や情景をモチーフにした作品が登場しました。この時期に灯籠師松本清記が登場し、その技法を集大成して後継者の確保と育成を行い、山鹿灯籠を近代的な伝統工芸品として普及させました。2012年には山鹿灯籠振興会が結成され、県・市・振興会が協力して後継者の育成や販売拡張に取り組み、9名の灯籠師によって精巧で美しい作品が作られています。2013年には経済産業省の伝統的工芸品に指定され、4名の女性灯籠師が「三角西港」を再現するなど、認知度の向上と伝統技術の継承に努めています。

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