金沢箔

金沢箔の歴史~長年の歴史と職人技が作り出す、美しい輝き~

金沢箔の歴史を年代別にかんたんに紹介

文禄2年(1593年):加賀藩の藩祖前田利家が豊臣秀吉の命により、朝鮮の役の際に金箔、銀箔の製造を命じる。
寛文7年(1667年):幕府が全国での貨幣製造を禁止し、金銀銅の地金を管理。
元禄9年(1696年):江戸に箔座設置。全国の金・銀箔製造と販売が禁止される。
元禄11年(1698年):加賀藩が領内で金・銀箔の使用を停止する命令。
宝永6年(1709年):江戸の箔座廃止。金銀の統制は金座・銀座により継続。
文化5年(1808年):金沢城二の丸全焼。再建のため金箔が必要となり、京都から職人を招く。
文政3年(1820年)、文政7年(1824年):幕府が箔打ち禁止令を発する。
天保13年(1842年):金沢の町人能登屋左助が箔の打ち直し許可を願い出る。
弘化元年(1844年):能登屋左助が江戸で作られた箔の独占販売権を得る。
安政3年(1856年):金沢に箔の細工場設立。金沢城修復や藩の御用箔に限り、箔打ち許可を得る。
明治2年(1869年):金座・銀座廃止により箔の統制解除。金沢箔の生産増加。
明治21年(1888年):箔の有志同業組合結成。品質・価格の協定、生産制限を実施。
大正4年(1915年):金沢の箔職人三浦彦太郎が箔打ち機を開発。
昭和7年(1932年):川北村で箔打ち紙用の手漉き和紙の製造に成功。
昭和25年(1950年):朝鮮戦争特需景気。石川県箔商工業協同組合成立。
昭和36年(1961年):親鸞上人大遠忌で箔の需要増加。
昭和43年(1968年):騒音規制法施行。箔打ち機の振動が法の対象となる。
昭和44年(1969年):金沢市福久に箔団地造成開始。
昭和51年(1976年):箔団地へ18工場30戸が移転。
平成21年(2009年):「金沢金箔伝統技術保存会」設立。

金沢箔の歴史(詳細)

金沢箔の歴史は、江戸時代から現代に至るまで、数多くの変遷を経て発展してきました。江戸時代には寛文7年(1667年)に幕府が貨幣の製造を禁止し、元禄9年(1696年)には箔座を設置して金・銀箔の製造と販売を統制しました。加賀藩では、これに続き元禄11年(1698年)に金・銀箔の使用停止を命じましたが、宝永6年(1709年)に箔座が廃止されても、その統制は金座・銀座により継続されました。

文化5年(1808年)に金沢城の二の丸が全焼し、再建のために京都から職人を招いて金箔製造が行われたことが、金沢における箔打ち技術の復活のきっかけとなりました。天保13年(1842年)には金沢の町人が箔の打ち直しの許可を願い出ましたが、許可は下りませんでした。しかし、安政3年(1856年)には金沢に箔の細工場が作られ、元治元年(1864年)には幕府から特定の用途に限り箔を打つ許可を得ました。

明治時代に入り、金座・銀座が廃止されると、金沢箔の生産は増加しましたが、競争と品質の低下により業者の廃業が続出しました。これを受け、明治21年(1888年)には品質・価格の協定や生産制限を行う箔の有志同業組合が結成され、金沢箔は金沢市の産物として発展しました。大正4年(1915年)には金箔打ち機が開発され、生産効率が向上しました。しかし、第二次世界大戦により箔の生産は困難になり、戦後復活しました。

日本で金・銀箔がいつから作られたかは明らかではありませんが、古くから寺院建築や仏像彫刻に使用されてきました。金沢で金箔が初めて作られたのは文禄2年(1593年)とされ、加賀藩の美術工芸推奨策や浄土真宗の信仰の興隆などが背景にあります。また、金沢が金箔製造に適した気候を持つことも、その発展に寄与しています。

金沢での金箔製造は、幕府の箔打ち禁止令が出された中でも、隠し打ちが続けられた結果、技術が研鑽され、優秀な技術が培われました。金沢箔は今日、日本の金箔の98%以上を占めるとともに、仏壇、仏具、屏風、西陣織、漆器、陶磁器など多岐にわたる分野で使用され、その技術は「金沢金箔伝統技術保存会」により次世代へと伝承されています。昭和52年(1977年)には「金沢箔」として指定

伝統的工芸材料になり、平成26年(2014年)には縁付金箔製造が文化財の選定保存技術に認定されるなど、その歴史と文化的価値は高く評価されています。

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